日記

バッハの末息子で最も奇妙? P.D.Q.バッハ

日記

こんにちはラローです
今回は以前触れたバッハの息子で、触れ損ねたP.D.Q.バッハについて解説しようと思います。
彼はその異質な音楽と後世の作曲家に大きな傷跡を残しながら長らく歴史の闇に埋もれてしまった作曲家です。そんな彼を今回詳しく紹介していこうと思います。

生涯(1807-1742)?

1742年にライプツィヒにてヨハン・セバスティアン・バッハとその妻アンナ・マグダレナの間に
第21子として生を受ける。彼の名前は「プリッツ・バン・クイック・バッハ」で由来はこの年、バッハ夫妻は大変大忙しだったからと言われます。かわいそうな名付け方…

バッハの息子たちは全員優れた音楽教育を受けたとされていますが、プリッツは末息子であったこともあり音楽教育を全く受けられず、遺されたものは父が使っていたカズーひとつだけだったとされています。

1755年にムジークソーの発明者としても知られるルートヴィヒ・ツァーンシュトッヒャーに音楽を学んだ。その後サンクトペテルブルグに身を寄せ、遠縁の娘ベティー・スーとの間に子供をもうける。

1770年についに作曲を始めるも、その多くは他者の音楽のメロディをパク…引用した楽曲ばかりだった。しかし、こうした他者作品からの引用によって自身の音楽を作るガメツイスタイルは晩年まで続くことになった。

1807年バーデン・バーデン・バーデンにて65年の人生を終えるも、墓石には生没年が逆に記載されてしまい、このミスによって「実はプリッツはタイムトラベラーなのでは」という疑惑が生まれた。たまるか!

一説には彼はJ.S.バッハの息子ではなくその息子ヨハン・クリストフ・フリーデマン・バッハの息子なのではないかと言われているが、真相は不明。これが本当だったらかなり闇深いぞ

後世に急速に忘れ去られたプリッツ
まあ当然?

他作曲家との関係

1.モーツァルト(1756〜1791)

音楽を学び始めた頃、モーツァルトとその父レオポルト・モーツァルトに出会い、その才能にやや驚愕するも、彼の心の溝を指摘し、レオポルトに「君の息子はビリヤードを習うべきだ」と助言した。
これがきっかけでモーツァルトは散財グセがつき、晩年は貧困に苦しんだと言われる。
また、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク小さな夜の音楽」に影響を受けて「A Little Nightmare Music小さな悪夢の音楽」というオペラを作ったとされる。

2.ベートーヴェン(1770〜1827)

彼のうちに秘めた情熱に惚れて頻繁に家に来訪するも、ベートーヴェンはあろうことかその度にコーヒー豆の残り滓を耳に詰めるようになった。これが影響で耳が聞こえなくなったという。
プリッツは彼の作品から多く引用した。その中でもミサ・ヒラリオスはオマージュしておきながら教会から破門を喰らった問題作として知られます。

3.メンデルスゾーン(1809〜1847)

バッハの復興に努めた彼ならもちろんプリッツの存在を知っていてもおかしくないと思うが、彼の功績を公表しなかったのは最大の謎と言われる。
なぜか、彼の曲もパクられてる。

4.シューマン(1810〜1856)

バッハの息子たちに対してあまり良い評価をしていなかったが、P.D.Q.バッハに対しては不可解な批評がつけられている。その批評文はただ「🖕」と書かれているだけだった。この絵が何を指すのかは不明
また、プリッツは父を亡くした恐怖を描いた曲に「Traumareiトラウマライ」と名付けて発表した。
シューマンも「トロイメライ夢と希望」という曲を残している。

オペラ「小さな悪夢の音楽」の表紙
モーツァルトのライバルサリエリが夢の中で聴いた曲をフラッシュバックするという形式で書かれる

代表曲

ベティー・スー・バッハの音楽帳

妻が鍵盤楽器を演奏するのに使って欲しいとプレゼントされたピアノの小曲集。8曲のピアノ曲から構成され、前記のトラウマライも収録されている。
初期の作品でありながら、日本の「karate」をテーマにしたり、手拍子、声真似も使用するという大胆さを持っている。
当然、大体パクってる。

2台のヴァイオリンと管弦楽のための協奏的小品曲

父であるJ.S.バッハの2台のヴァイオリンのためのコンツェルトから影響を受けているとされる。
素人ヴァイオリニストと玄人ヴァイオリニストが交互に演奏する形式で、曲中でははじめは嫌な顔をしていた玄人ヴァイオリニストも素人を助けるようになり、途中一緒に歌ったり、最後はハイタッチで終わるというストーリー性に溢れたものとなっている。
これは音楽的教育を受けられなかったプリッツが望んだ父とのレッスン風景なのかもしれない

ちなみに玄人ヴァイオリニスト役は現在も存命の素晴らしきヴァイオリニスト、イツァーク・パールマンである。
素人役はP.D.Q.バッハ研究の第一人者ピーター・シックリーである。

未開始交響曲

こちらは実に47曲の他作曲家の冒頭部分を丸々パ…引用して構成された曲である。
この作品を見た友人は「Pathetic哀れだ…」と呟いたとされるが、「未開始Unbegun交響曲」と名付けたとされる。

序曲1712年

こちらの曲は大規模なオーケストラ曲で、彼の最も著名な作品として知られます。
この作品は新大陸アメリカに渡った経験を語る壮大な曲として書かれました。
風船や話し声などの本来使わないものを楽器を取り入れたり、オルガンが乱入したり、管楽器全員でブレスをするといった独創的な工夫がところどころに見られます。
チャイコフスキーも序曲1812年という類似した曲を作っており、一説では「プリッツはチャイコフスキーの1812年をパクったのでは」ということが囁かれるも、時系列がおかしすぎるためチャイコフスキーが1712年に影響を受けたと考えるのが定説だそうです。

後世への影響

プリッツの作品は死後、その奇抜さと大体が有名曲のパクリであることから歴史から抹消されましたが、1954年ピーター・シックリー教授によってバイエルンの古城からスコアが発見され、147年ぶりに日の目を浴びることになります。

彼の作品について教授は「ヨハン・クリスティアン・バッハの独自性、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの尊大さ、ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハの無名さを兼ね備えている」と述べるとともに、彼の作品について「躁病的な盗作だ」と評価しています。
彼の独創性とオリジナリティの欠如という相反する評価は同時期の作曲家と比較する際に使用されています。

また、彼はトロンボーンに木管楽器を合体させたトロンブーンとして使用する大胆な奏法、楽器でないものを曲中に散りばめたりする管弦楽法は影響を与えたりなかったりしたそうです。

ピーターシックリー教授
各地を渡り歩いて多数のプリッツの曲を発見した。

最後に

このP.D.Q.バッハは四月一日が誕生日です。
この機会にぜひ彼の曲を多く知ってあげてください!

投稿遅れましたラローでした。

参考にしたもの

https://www.presser.com/p-d-q-bach?p=2
https://wikipdq.fandom.com/wiki/%22Unbegun%22_Symphony
http://iberia.music.coocan.jp/score_pdqbach.htm
https://ja.wikipedia.org/wiki/P._D._Q._バッハ

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